顔よりも、男は声

やっと書き終えたばかりの原稿を書き直さなくてはならなくなった。
担当編集者のT女史と電話で話すことになり、約束の時間にかけると、「あ、今戻ってきました!しばしお待ちを!」となんだか慌ただしい様子。戻ってきた人物が、某マガジン編集長Y氏だとすぐに気づく。時に優しく、厳しく、若輩者を導いてくださるこの方を私は敬愛している。60代半ばと聞くが、20代の頃と全く変わらないというスマートな体には、スーツでも、洗いたてのシャツでも、どんな洋服もよく似合う。だが、洋服で自分を引き立てて、よく見せようなどという考えは、おそらくこの方にはない。気取りがなく、いつでも自然体。その佇まいからは、知性と気品を兼ね備えた大人の魅力が、否が応でもにじみ出ている。それでいて、少年のような好奇心を持ち、あらゆる探求を忘れない。女性には言わずもがな、とにかく人にモテまくる。

Y氏からは、身に余るほど多くのことを学ばせていただいているが、グサリと核心を突く発言の鋭さは、時に脅威的でもある。今度は、どの角度から、いつ刺されるんだろう。そう思うと、やはり緊張してしまう。

T女史のiPhoneが、スピーカーフォンに切り替えられると、Y氏の声が聞こえてきた。ゆっくりと吟味した言葉を、なだらかだが、一気呵成に伝えるいつもの口調は変わらない。一度に把握しきれないので、私もいつものようにノートに書き留めながら話を聞く。ところが、他のことが気になって、肝心のポイントが、まったく頭に入ってこない。電話越しのY氏の声が、めちゃくちゃカッコいいのである。自分の耳を一瞬疑ったが、そこにいるのは間違いなくご本人。事もあろうに、染みわたるように響く、深いその声に、ときめいてしまったのだ。ここ数年、何度もお目にかかる機会があった。それなのに、なぜ今まで気づかない?考えてみれば、Y氏と電話で話すのは、これが初めてだった。

向田邦子さんが遺した小説に、「隣りの女」という名作がある。アパートの壁越しに聞こえてくる男の声に翻弄された主婦・サチ子が恋に落ち、はるばるニューヨークまで駆け落ちまがいの旅に出てしまうという話だ。

その男というのは、主婦の隣に住むスナックのママの部屋に出入りしていた男の一人。良からぬことだと思いながらも、サチ子は、情事に至る二人の一部始終に、耳をそば立てずにはいられない。男に惹かれる決定打になったのは、男がママに“谷川岳”の話をするあたりからだ。

<「上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾。桶川。北本。鴻巣。吹上」男の声は低いが響きのいい声である。ひとつひとつの駅名を、まるで詩でもよむように言ってゆく。夢ではない。声は明らかに、壁の向うから、隣りの部屋から聞こえてくる。>

谷川岳に向かう列車の駅名を空で言ったあと、男の声は甘くなり、やがて壁がゆっくりと揺れ始める。そして、ママが「もう一度、駅名を言って」と男にねだる。 男の声を壁越しに聞きながら、サチ子も意識の中で山の頂上に登りつめていき、やがて、頂きがきて、全身の力が抜け、死んだように動けなくなるーまだ顔も見たことのない見知らぬ男の声が、つましく生きてきた主婦を一人の女に戻らせたのだ。

顔以上に、男性の声は、鮮やかに感覚に記憶される。それをY氏との一件で私は実感した。耳元に残るあの声を反芻すると、やっぱりいい声だなとしみじみ思う。あの電話以来、お目にかかっていないが、今度会う時、しばらくは目を見て話せないだろう。私の場合は恋ではないが、一瞬でも、ときめいたのは事実だから。サチ子は、一世一代の恋を自ら破ったあと、夫の元に戻ったが、彼女の中にも、あの男の声はいつまでも色褪せることなく、残っているのではないだろうか。恋ならぬ、男の声は魔物だ。

PROFILEプロフィール

岸 由利子 ー Yuriko Kishi著述家・画家

英国ロンドン・セントラルセントーマーチン美術大学FDM(ファッションデザイン・ウィズ・マーケティング科 学士号<Bachelor of Arts>)卒業。在学中、スーツの聖地・サヴィル・ロウ1番地「ギーブス&ホークス」で日本人女性として、約2年半に渡る異例のテーラリング修行を伝授。帰国後、ブランド「マルコマルカ」を創立し、東京コレクションにて最年少女性デザイナーとしてデビュー。ファッション界で活躍したのち、文筆業に転身。オーダースーツや腕時計などのファッション・芸術・文化などの分野で執筆する。近年の共著に「人を引きよせる天才 田中角栄」「先生が教えてくれなかった 大日本帝国」「武士道の極意に触れる流派から学ぶ日本の礎」(いずれも笠倉出版社)、スイスの高級メンズ腕時計を特集した「腕時計ライフ」(玄光社)などがある。
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岸由利子

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