シャツに染みついた香りの記憶

 ある日どこかの街中で、ふわりとなつかしい香りが漂ってきました。それは、あのフィレンツェの古い教会の薬局でつくられる香水。大好きだったあの人がつけていたのと同じものでした。香りが体に入った瞬間によみがえってきた、甘く美しい日々の記憶。あの人がよく着ていた、シルクのような肌ざわりの白いコットンシャツ。いつも素肌の上に着ていたから、香水の香りがよく染み込んでいたっけ…。そのシャツに顔をうずめて深呼吸すると、心が落ち着いてとても幸せな気持ちになったり。後から彼の移り香に気づいて、一人でまたニタニタしてしまったり…。不意にそんなことを思い出しながら、同時に声や表情、肌の温もり、当時の感情までもがフラッシュバックしたのでした。もしかしたら近くにいるんじゃないかしらと無意識に辺りを見回す自分にちょっぴり切なくなるのは、いつしか遠くなった記憶の中の香りがまだ心に染みついたままだからなのでしょう。自分が愛した男性の香りは、もしかしたら永遠に忘れられないのかもしれませんね。心に染みついた香水の歴史は、自分が愛してきた男性の歴史なのです。

 ”香りを制する者は、女を制する”
 ちょっと言い過ぎかもしれませんが、香りには魔法にかけられたような不思議な支配力があるのではないかと感じています。実際に女の子は男性よりも嗅覚の働きが鋭敏であると、どこかで耳にしたことがあります。そして、ご存知のとおり女の子は男性よりもとてもエモーショナルな生き物です。つまり、感情と記憶が香りに結びつきやすいのですね。では、”香りを制する者”とは誰なのか。それは、”スタイルをもった男性”です。センスの良い彼らは必ずと言っていいほど自分の愛する香りをもっていて、コロコロ浮気をして簡単に香りを変えたりはしません。自分のスタイルにはどんな香りが似合うのかをよく知っているのです。強すぎず弱すぎず、香りの立たせ方も品があって、カシミヤのマフラーを巻くようにふわっとやさしく香りをまとっているのです。当然ながら、男性特有の匂いや加齢によるあの嫌なニオイなんて全く漂ってきません。おそらく、匂いのケアには日頃から気を遣っているのでしょう。相手のことを考え、匂いに細かい意識をもてるかどうかは礼儀とマナーを重んじる「ジェントルマンシップ」に通ずるものがあります。この気遣いとセンスを感じられる香りが女の子にとって気持ちがよく、知らず知らずに感情と記憶に染み込みんでいくのです。

 紳士服の長い歴史をさかのぼると、現代のシャツのルーツは”下着”でした。本来的には、シャツというのは素肌の上に着るものなのです。シャツ、つまり直接肌に触れる下着にどれだけ気を遣えるのか。清潔感はもちろんのこと、たとえば肌ざわりの良い上質な天然素材のものを選んだり、仕立てが良く適度にゆとりをもって体にフィットしたものを選んだりと、ここに着る本人の人間性をうかがうことができます。また、最近では匂いを匂いで消すケミカルな柔軟剤が流行っていることもあってか、残念なことにシャツから甘ったるくチープな匂いを漂わせているビジネスマンも少なくありません。シャツに余計な匂いがついていたら、せっかくの良質なシャツも芳しい香水も台無しです。もともと強い匂いが苦手な私ですが、正直なところ、あの甘ったるい柔軟剤の匂いは気分が悪くなるほどクサイ!。シャツの香りひとつで、与える印象はガラリと変わってしまうのです。それに、相手に記憶される自分の香りが柔軟剤の匂いというのも、なかなかカナシイものですよね…。やはり、清潔感のあるシャツから香水の香りがやわらかく香り立つくらいが理想的なのではないでしょうか。このように香りとはなかなか奥が深いもので、自分が思っている以上に自分を雄弁に物語ってくれる魔法なのです。

PROFILEプロフィール

中里 彩 ー Aya Nakazatoテーラーアプレンティス

1992年生まれ。エジプト考古学者を志して、大学では考古学を専攻。一方で、メンズのテーラード服に惚れこみ、在学中から熟練の職人の元でテーラリングを学ぶ。卒業後は、ファッション業界に限らず、複数の事業を展開。縮小していく職人の手仕事を支えたいという強い思いから、現在ブランド・プロダクトのプロデュースを準備中。ファッションスタイリング、執筆活動なども開始。
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中里彩

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