飯田橋、スーツ、リュックサック

先日、夜の飯田橋を歩いていたら、ふと寄り道したくなった。自宅は徒歩圏内にある。帰れない理由もない。むしろ家ほど心地良い空間はないのだが、この日は、なんとなくいつもと違う時間が過ごしたくなり、パッと目についたホテルに吸い込まれるように入った。フロントで告げられた宿泊料金に若干怯んだが、たまにはこんな贅沢もいいだろう。息抜きだ。自分へのご褒美だーそう言い聞かせ、少し奮発して一泊した。ところが、部屋に入ってからの記憶がほぼ飛んでいて、気づけば朝だった。私が欲していたのは、安らかな睡眠だったらしい。

午前8時半、窓の外には早足で行き交うビジネスマンたちの姿があった。昨夜の静けさが嘘みたいに、街には活気と緊張が溢れていた。ピンクやブルーのパステルカラーや白を基調にした女性たちの装いは、春が来た証。眺めるだけでも、晴れやかな気分にさせてくれる。暖かくなったからか、シャツ姿の男性も目立っていた。思わず二度見したのは、シャツの袖を肘までまくり上げた人を見つけた時。しかも、彼の手元にジャケットは見当たらない。果たしてその身なりのまま、大事な会議や商談に出席して、大丈夫なのだろうか。余計なお世話だろうけど、心配になった。

一番の衝撃は、スーツにリュックサックを背負った男性の多いこと。飯田橋のみならず、近年、至るところでよく見かけるなと思っていたが、数えてみたら、なんと3人に1人はリュックを持っていた。手提げの革鞄に比べて、リュックサックは持ち運びに便利だし、長時間運んでも疲れにくい。日本においては、多くの人にとってスーツとは「仕事着」を意味するものであり、実用性に長けたこのアイテムを合わせる感覚は十分に理解できる。黒いスーツに、黒いリュックサックを背負った男性5人が立て続けに通った時は、何かのドッキリかと思ったほど驚いたけれど。

ただ、これを背負うことによって、これからの季節、大きく二つの問題が起きることは否めない。ひとつは、「汗染み」。リュックサックを背負うと、誰でも背中にたくさん汗を掻く。汗かきの人は、冬場でも、スーツ越しに背中を伝う汗を感じるという。それでも、スーツやシャツをこまめにメンテナンスできる人ならいいと思うが、「気づけば、毎日同じスーツを着ていた」なんてことが頻繁な人は、衣類だけでなく、時間をかけてリュックサックに染み込んだ「臭い」の問題も起きてくるだろう。

もうひとつは、「シワ」。リュックサックの形状上、負荷がかかるのは肩や背中で、シャツであれ、ジャケットであれ、それらの部分にシワがつきやすくなる。汗も手伝って、特にシャツはシワになりやすい。特に重い荷物の場合、後ろに引っ張られる形になり、型くずれして不格好に見えてしまうことが多い。

ファッション感度の高い女性たちに聞くと、「スーツにリュックサックを背負うなんて、ダサい」という声が上がるが、清潔感とスーツへの礼儀さえ守れば、まったくもってアリのスタイルだと思う。むしろ残念なのは、2WAYビジネスバッグの斜め掛け。シャツもネクタイも、あらゆるスーツのディテールも、朝から夜に向かうほど、それらすべてを台無しにする気がしてならないのは、私だけだろうか?

PROFILEプロフィール

岸 由利子 ー Yuriko Kishi著述家・画家

英国ロンドン・セントラルセントーマーチン美術大学FDM(ファッションデザイン・ウィズ・マーケティング科 学士号<Bachelor of Arts>)卒業。在学中、スーツの聖地・サヴィル・ロウ1番地「ギーブス&ホークス」で日本人女性として、約2年半に渡る異例のテーラリング修行を伝授。帰国後、ブランド「マルコマルカ」を創立し、東京コレクションにて最年少女性デザイナーとしてデビュー。ファッション界で活躍したのち、文筆業に転身。オーダースーツや腕時計などのファッション・芸術・文化などの分野で執筆する。近年の共著に「人を引きよせる天才 田中角栄」「先生が教えてくれなかった 大日本帝国」「武士道の極意に触れる流派から学ぶ日本の礎」(いずれも笠倉出版社)、スイスの高級メンズ腕時計を特集した「腕時計ライフ」(玄光社)などがある。
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岸由利子

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