スーツは男の鏡

スーツを素敵に着こなす男性には、想像力を掻き立てられる。
「スーツとは、着るパスポート」と服飾評論家の出石尚三氏がおっしゃるように、スーツは、その人を一瞬で物語る社会服であると共に、内側に秘めた人間的魅力を包み込む神秘的なヴェールのように私には見える。それらは、目に見えない茫洋としたものだから、余計に興味をそそられる。そして、今日もスーツ越しの想像世界に羽根を伸ばす。

例えば、あるバーで居合わせた男性。見知らぬ人をあまりジロジロ見るのも失礼なので、素知らぬ顔でチラッと視線を向けて、またすぐに戻すを繰り返す。一眼レフカメラやスマートフォンを使えば、立派な盗撮になるが、脳内カメラのシャッターを押すだけなら、誰にも迷惑をかけることなく、それは美しい瞬間として刻まれる。(というのは言い訳か)

見るからに上質なダークブルーのスリーピース・スーツをさらりと着こなすバーの男性が、ノーネクタイだと気づくまでにかなり時間があった。軽装な感じは微塵もなく、全体に上品なムードが漂っていた。培ってきた品格がおのずとにじみ出ているのだ。出逢いも別れも、人生のあらゆる悦びや哀しみも、静かに流れる深い川のように悠然と受け止めて味わうのだろう。いつしか私の心はヴェネツィアへと飛び、夕暮れ時のゴンドラに彼と二人で揺られていた…という具合に、素敵なスーツ姿の男性を見かけるたび、一人勝手に想像を巡らせて、仮想の旅に出かけるのである。

男性のスーツ姿に色気を感じるという女性は多い。恋人や思いを寄せている人など、特定の相手だけという人もいれば、スーツというクラシックなアイテムに身を包む不特定多数の人もいる。私の場合、普段、滅多にスーツを着ない人が、ビシっとキメたスーツ姿で現れる時ほど、息を呑む。スーツに惹かれるのは、男性に気に入られるための風俗服として発展してきた女性の洋服と違って、いつの時代も、極めてロジカルだから。ジャケットとトラウザーズ。ごく限られたアイテムの中には、スーツの本家本元・19世紀のイギリスを生きた上流階級の男性たちの歴史が凝縮されている。シルエット、ディテール、その全てに宿る珠玉の美意識。前述の出石氏の言葉を借りれば、「男の服で説明できない服はない。全てに理由がある」。だから、奥深い。だから、もっと知りたくなるのだ、その内面をそっと映し出す鏡のことを。

PROFILEプロフィール

岸 由利子 ー Yuriko Kishi著述家・画家

英国ロンドン・セントラルセントーマーチン美術大学FDM(ファッションデザイン・ウィズ・マーケティング科 学士号<Bachelor of Arts>)卒業。在学中、スーツの聖地・サヴィル・ロウ1番地「ギーブス&ホークス」で日本人女性として、約2年半に渡る異例のテーラリング修行を伝授。帰国後、ブランド「マルコマルカ」を創立し、東京コレクションにて最年少女性デザイナーとしてデビュー。ファッション界で活躍したのち、文筆業に転身。オーダースーツや腕時計などのファッション・芸術・文化などの分野で執筆する。近年の共著に「人を引きよせる天才 田中角栄」「先生が教えてくれなかった 大日本帝国」「武士道の極意に触れる流派から学ぶ日本の礎」(いずれも笠倉出版社)、スイスの高級メンズ腕時計を特集した「腕時計ライフ」(玄光社)などがある。
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岸由利子

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