ブートニエールは、花より徽章

スーツにこだわりを持つ男性なら、ブートニエールのことはご存知だろう。フォーマルスーツのジャケットのラペルに付いているあの襟穴、元を辿れば、フランス語でいうところのボタンホールだ。「フラワーホール」とも呼ばれ、現在は、花を挿すための穴であり、飾り花自体を指すディテールとして知られているが、そもそも意図して作られたものではない。かつて、学生服のように詰襟だったシングルジャケットが開襟し、第一ボタンをなくした仕立てに変わっていく中で、第一ボタンのボタンホールだけは残った。その名残に、いつしか花を挿すようになったのである。

発端について諸説はあるが、男性が意中の女性にプロポーズする時に花束を差し出し、答えが「イエス」の場合、女性は花を一輪抜き、男性の胸元に挿したという19世紀のヨーロッパの風習がルーツであるらしい。なんとロマンティックな愛の語らいだろう。さして相手の男性に好意を持っていなかったとしても、ド直球な求愛にクラッときた女性は多いはず。

ブートニエールと言うと、そこに会社の徽章を付けていた父の姿を私は思い出す。朝早くに家を出る時、ほろ酔いのご機嫌ムードで帰宅する時、子供の頃はいつだって、父の左胸には徽章が鋭く光っていた。庭いじりや犬の散歩をする時のジャージ姿の父になら、いくらだって歯向かうことができたのに、無言の説得力があるというか、徽章の付いたジャケット姿の父はなぜだか荘厳に見えて、妙に従順になる自分がいた。いつしか私の中では、「大人の男の人の上着=心臓の上にバッジ」、「それを付けたお父さんは偉い人」という“おしゃれ”とは全く関係のないところで、ブートニエールにまつわる男性のイメージが一人勝手に出来上がっていた。

だからこそ、服飾評論家の出石尚三氏の話を伺った時は驚いた。出石氏によると、1920~30年代のヨーロッパでは、プロポーズに関係なく、飾り花を挿すことは、紳士の嗜みとして広く浸透していたという。造花ではなく、生きた花を飾るゆえ、朝になると、人の集まるエリアには花売り娘がいて、飾った花に水を与えるために、フラワーボトルまで売られていたとか。そこまで徹底して、自らの装いにこだわった紳士のように、ブートニエールに遊び心を持つ男性は、現代の日本にもいらっしゃる。だが、スーパースタイリッシュなごく一部の方たちに限られているのが知るところの現状であり、ブートニエールに徽章を付ける男性は、ある意味、私にとって脅威的な存在のまま…。

そんな折、イメージを覆す男性にお目にかかる機会があった。ここでは名前を出せないのが残念だが、東京2020に向けての活躍が期待されている日本屈指のアスリートである。Tシャツにブラックスーツを纏って颯爽と現れた彼は、文句なしにカッコよかった。これ見よがしに着飾っていない。透徹してさりげない。それなのに、なぜか素敵。だからこそ素敵?僭越ながら、自分に似合うスタイルを熟知していらっしゃる方なのだと思ったが、この日の主題は洋服ではなく、あくまでもアスリートとしての彼。

インタビュー中は、お顔から上にしか目がいかなかったのだが、取材が終わった後、改めて彼の全貌を見て気がついた。文句なしにカッコいいと感じたスーツは、在りし日の父がプライベートで好んだジャージ素材で、ジャケットの胸元には、所属企業の創立年を記念した徽章が飾ってあったが、言われなければ気づかないほどささやかで、スタイリッシュでクールなアクセサリーそのものだった。その瞬間、私の中では、ブートニエールに徽章を付ける男性のイメージに、「カッコいい」が新たに加わった。

威厳以外のことを感じさせてくれたのは、纏うご本人のセンスに依るところがあったとは思うけれど、ブートニエールに飾る徽章も、ブートニエールそのものも、ステイタスやパワーを示したり、花を飾る他にも、メンズファッションの幅を広げるアイテムとしてこれからもっと進化していくのではないかと思えてならない。男性の皆さま、ご自身のジャケットの“目”と“バッジ”に今一度、その目を向けてみませんか?

PROFILEプロフィール

岸 由利子 ー Yuriko Kishi著述家・画家

英国ロンドン・セントラルセントーマーチン美術大学FDM(ファッションデザイン・ウィズ・マーケティング科 学士号<Bachelor of Arts>)卒業。在学中、スーツの聖地・サヴィル・ロウ1番地「ギーブス&ホークス」で日本人女性として、約2年半に渡る異例のテーラリング修行を伝授。帰国後、ブランド「マルコマルカ」を創立し、東京コレクションにて最年少女性デザイナーとしてデビュー。ファッション界で活躍したのち、文筆業に転身。オーダースーツや腕時計などのファッション・芸術・文化などの分野で執筆する。近年の共著に「人を引きよせる天才 田中角栄」「先生が教えてくれなかった 大日本帝国」「武士道の極意に触れる流派から学ぶ日本の礎」(いずれも笠倉出版社)、スイスの高級メンズ腕時計を特集した「腕時計ライフ」(玄光社)などがある。
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岸由利子

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